連載小説

シュールストレミングの主題による変奏曲

第一話 第二話 第三話 第四話 第五話 第六話

「ヤバイ!ウンコ漏れる!」
北野俊夫は駆け足で勤務先の予備校に駆け込み、一目散にトイレへ向かった。
「クソッ、昨日の夜に食べた鶏肉がいけなかったんだな。あのオヤジめ、あの鶏肉火が通ってなかったぞ。」
俊夫は昨夜の夜に入った中華料理店のオヤジに不満をぶつけながら用を足していた。
用を足した俊夫は受け持ちの高校3年の化学の授業へと向かった。

北野俊夫35歳。予備校講師。
俊夫は大学院博士課程を修了し、理学博士の博士号を持つ。
当然、彼はアカデミックな世界へと進むつもりであったが、助手としての採用はなかなかなく、仕方なく予備校講師をして食いつないでいる。
いわゆるオーバードクターというやつだ。
彼も最初は予備校講師という身分に不満を持っていたが、続けているうちに今の仕事に対する愛着も湧いてきて、このまま予備校講師を続けてもいいと思い始めてきた。
幸い、彼にこの仕事は向いていたようで生徒の評判もかなりよく、人気講師となっていた。

「・・・、と言うわけで、入試では有機分野はエステルの問題が重要ですねー。では、今日はここまでにしておきます。質問のある人は遠慮なくきいてくださいね。」
今日も授業が無事終了した。
講師室でコーヒーを飲みながらくつろいでいると生徒のあかりがやってきた。
質問にやってきたようだ。
「先生、この問題、解説見てもよく分からないんです。」
あかりは毎週のように質問に来る。
まさか俺に気があるんじゃないかな。なんてね。
俊夫が妄想のふけりながら質問に答える。
あかりも疑問が解消されたようで満足そうだ。
「やれやれ、これで今日の仕事も終わりだ。焼肉でも食いに行こうかな」
俊夫がホッとしているとあかりがなにやらもじもじしている。
俊夫が不審に思うと、突然
「先生、これ読んでください」
あかりが何かを手渡したかと思うと足早に去っていってしまった。
あかりが手渡したのはどうやら手紙のようだ。
俊夫は開封して読んだ

北野先生へ

北野先生、こんにちは。突然このようなお手紙を渡してしまって申し訳ありません。
でも、私、どうしても先生に伝えたいことがあるんです。
本当は直接言いたいんだけど、どうしてもいえなくて・・。
先生の授業、すごく分かりやすいです。質問にもすごく丁寧に答えてくれて。
それに面白いし。
私、そんな先生のことが大好きです。私と付き合ってください。
今日、駅前の吉野家で待ってます。
もし私と付き合っていただけるなら吉野家まで来てください。
もしダメなら・・。
吉野屋には来ないでください。
まってます。

あかり

 

がーん。ラブレターである。
35年間生きていて初めて貰ったラブレター。
俊夫はあまりの出来事に驚愕し、一瞬気を失いかけた。
実は、俊夫もあかりに惹かれていたのは事実だ。
毎週のように質問にやってくるし、自分になついている。
少なくとも、悪い感情は持っていない。
俊夫は走った。吉野家へ。栄光への懸け橋だ!

俊夫が吉野家に到着すると、中にはあかりがいる。
豚丼をゆっくりと食べているのが見える。
そして、他に客はホームレス風の男が一人居るだけだ。
ホームレス風の男は豚丼と卵を食べていた。
しかし、男の食べている卵は(以下略

俊夫は吉野屋に入り、あかりの隣に座った。
「豚丼、特盛り」俊夫がオーダーすると、
「申し訳ありません、豚丼は特盛りはございません。大盛りでよろしいでしょうか?」店員が返答する。
「そうですか。じゃあ大盛りでお願いします。」
オーダーが終わるとすぐに豚丼が俊夫の前に出された。
豚丼に七味唐辛子を掛けながら俊夫は勇気を出して話しかけた、
「あかり、手紙読んだよ。」
「先生、来てくれたんですね。来てくれないかと思った。うれしい・・。」
あかりは目を潤ませて俊夫に言った。
「あかり、実は、ぼくも君のことが気になっていた。でも、講師という立場もあって君と付き合おうとは思わなかった。でも、君から手紙を貰って思ったんだ。自分に正直に生きようって。だから、ぼくから言わせてくれ。君が好きだ、俺と付き合ってくれ。」
「先生・・・。」あかりは思わず泣いてしまった。
二人は黙って豚丼を食べると、店の外へ出た。
二人は今までの気持ちを話しながら帰路へついた。
俊夫はあかりを家まで送って行った。
「おやすみ。また連絡するよ。」
「先生、おやすみ。」
俊夫は自宅へ帰った。
その晩、二人は幸せな気持ちで眠りに着いたのであった。

これから起こる悲劇のことなど微塵も考えずに。

 

第二話

「あかり、早く起きなさい、遅刻するわよ」
あかりの母、弘子が明かりを起こす。
「ええっ、もうこんな時間?」
あかりはうっかり寝坊してしまって急いで支度をした。
「あかり、朝ごはんは?」
「時間ないからバナナだけでいいや。」
バナナを食べるとあかりは急いで家を出た。
急いでバス停まで行き、ギリギリでバスに乗ることができた。
無事学校に着くと、あかりは早速友人達に俊夫と付き合うことになったことを報告した。
友人達は皆驚き、祝福してくれた。
しかし、友人の一人である宏明は複雑な気持ちだった。
実は、宏明はあかりに密かに思いを寄せていたのだ。
高校に入学してから友達になった二人であったが、宏明はすぐにあかりに惚れてしまった。
しかし、積極性に欠ける宏明は友人関係が壊れることを恐れてなかなか積極的にアプローチできないでいた。
自分の気持ちを表現できないままずるずるとここまで来てしまった。
そして、あかりが俊夫と付き合う話を聞いてしまった。
宏明はショックであり、大変つらかった。

今日は中間テストがいくつか返却されたが、化学は満点でトップの成績だった。
これも俊夫にくっついて質問をたくさんしたおかげである。
「あかりはいつもすごいなぁ。北野先生の愛の力だね!」
親友の芳子があかりを冷やかす。
「そうそう。愛があるからね〜。」
照れる様子もなく堂々としたものである。
こんな感じであかりは一日過ごしたのである。
放課後、あかりはワクワクした気持ちで予備校へ向かった。
今日は俊夫の授業はないが、英語の授業を受けに行った。
もちろん、機会があれば俊夫にも会うつもりだ。
英語の授業は散々だった。
あかりは元来英語のように日々の努力が求められる分野の勉強は苦手だ。
今回も、長文を読む授業で講師に当てられて答えることができずに気まずい思いをしてしまった。
「ふん!英語なんてつまらない!私は化学ができるからいいのよ。私には北野先生がついてるし。せっかくだから講師室へ行ってみよう。」
講師室では俊夫が今日の授業を終えてコーヒーを飲んでくつろいでいた。
「北野先生っ!」
「お、あかり。もう授業終わったのか。一緒に帰ろう。」
あかりと俊夫は一緒に予備校を出た。
俊夫があかりに言った。
「あかり、予備校の中ではあまり仲良くするのはやめよう。」
「え、どうして?私と付き合ってることが分かると困ることでもあるの?」
「うちの予備校では講師と生徒の間での恋愛は禁止されているんだ。だから、もし予備校にこのことがばれたら私は解雇されてしまうんだよ。」
「そっか。じゃあ仕方ないね。」
「予備校から出たら平気だよ。そうだ、焼肉でも食べに行かないかい?」
「うん!」

俊夫とあかりは焼肉屋へ向かった。
「やっぱりタンはうまいねぇ。」
「うん。ロースもおいしい!。レバ刺しも食べようかな。」
「ははは。気をつけろよ!レバ刺し食べて腹壊すなよ!」
「大丈夫!私はおなかは丈夫なんだから。先生こそおなか壊さないでよ。昨日予備校のトイレに駆け込むの見てたんだから。」
「え、見てたのかい。まいたったなぁ。」
二人が楽しく食事をしていたが、ちょっと厄介な事態が訪れた。
近くのテーブルに同僚の保田と大河内が焼肉を食べているのが目に入った。
一瞬目が合ったような気がしたが、気づかれただろうか?
気づかれなければよいのだが。
二人はかなり熱心に話しこんでいたので多分気づかれていないだろう。
あの二人はかなりの釣りバカで釣りの話となると周りが全く目に入らない。
おそらくまだ気づかれていないであろうが、このままここに長居するのは得策ではないので早めに店を出ることにした。

「あかり、おやすみ。」
「先生、おやすみ。」
本来ならばこのまま俊夫のアパートで一夜を共にしたいところであるが、なんといってもまだ交際二日目で相手は高校生である。
さすがに俊夫も躊躇して、あかりを送り届けて自分も自宅へ戻った。

一ヵ月後

俊夫とあかりが交際を始めて一ヶ月がたったが交際は順調に続いている。
幸い、周囲にバレている様子もない。
俊夫にとっても、あかりにとっても幸せな期間であった。

しかし、そんな幸せも間もなく終わりを告げることになることを、二人は知る由もなかった。

第三話

「北野先生、ちょっと授業が終わったら私のところまで来てください。」
俊夫が勤務する校舎の責任者の講師である本藤が俊夫に声をかけた。
本藤は予備校設立当時からいる講師の一人で経営の一角を担っている。
また、講師陣からの信頼も厚い。

「・・・、というわけで、最低限フェノールの合成法は完璧に3種類書けるようにしておいてくださいね。では今日はここまでにしておきます。」
俊夫が授業を終え、本藤の元へ向かう。
「本藤先生、何か御用でしょうか?」
「北野先生、あまりいいお話ではないのですが、このようなものが予備校の方に届きました。」
本藤は一枚の紙を俊夫に見せた。
紙にはワープロ打ちで次のように書かれていた。

雲弧予備校の講師である北野俊夫は予備校の生徒である濱田あかりと交際をしている。
予備校講師としてこのようなことは許されるのか?
もし雲弧予備校に良識があるならこのような講師は即刻解雇するべきである。
北野を解雇しないようならばこの事実を他の予備校および保護者陣に公開する。

「あと、こんな写真も同封されていました」
本藤は俊夫に一枚の写真を見せた。
写真には俊夫とあかりが俊夫のアパートから出てくるところが写っていた。
「北野先生、困ったことになりましたねぇ。まず、最初に確認したいのですが、ここに書いてあることは事実ですか?」
「はい。事実です。申し訳ありません。」
「そうですか・・。うちの予備校では生徒との交際を禁止しているのはご存知だと思います。そして、規約に違反した場合は解雇もありうると言うことにも同意していただいているはずです。」
「しかし、今北野先生がいなくなると非常に困ります。3年生や浪人生はこれからが本番ですが、北野先生がいなくなると授業を全てこなせません。それに、トップのクラスを任せられるのは北野先生だけです。それに、北野先生にはお世話になっているのでこんなことで辞めていただくのは忍びない。」
「ご迷惑おかけして申し訳ありません。」
「この手紙では、北野先生の解雇のみを要求しています。金品の要求もありません。また、うちの営業妨害をするつもりならこんな手紙を送らずに事実を公表するでしょう。おそらく、この手紙を送った主は北野先生と濱田の交際を快く思ってない人間に仕業だと思います。」
「なるほど・・。」
「とりあえず、現時点での私の考えとしては、北野先生には即刻濱田との交際を打ち切っていただき、しばらく様子を見てみてはどうかと思いますが、いかがでしょうか?」
「分かりました。寛大な処置、ありがとうございます。」
「北野先生、我々も人間ですから時に生徒に対して特別な感情を抱くこともあるかもしれません。しかし、我々の仕事は信用が第一です。今後、くれぐれもこのようなことがないようにしてくださいね。生徒が卒業したあとは私も何も口出しはしませんから。」

「えっ、そんな・・。ごめんなさい。私のせいで・・。」
俊夫がアパートであかりに事実を話しているところのようだ。
「君のせいじゃない。講師という立場にありながら君と付き合っていたぼくが悪いんだ。あかり、とりあえず君とは別れることにしようと思う。」
「うん。私のせいで先生が解雇されたら困るし、仕方ないね。」
言葉ではそう言っても、あかりは悔しさ、悲しさで一杯だった。
それは俊夫も同じであったはずだが・・。
「もし君が、ぼくのことを思い続けてくれるなら、君が卒業したらまた付き合おう。」
「うん。あと4ヶ月の我慢だもんね。却って勉強に集中できていいかも。」
「じゃあ、しばらくは講師と生徒の関係に戻ろう。」
「うん。じゃあ先生、最後にもう一度キスして。」
「仕方ないな。」
俊夫とあかりは長い間接吻をした。
とそのとき、窓越しにフラッシュが光ったと思ったら人影が走っていくのが見えた。
「くそっ。あいつが犯人だ。」
俊夫はすぐに飛び出して道路に出たが、もうすでにとき遅し、犯人の影も形もなかった。
「一体誰がこんなことを・・。」
俊夫は犯人に対する憤りともどかしさで一杯だった。
そばには、突然の出来事におびえたあかりがたたずんでいた。

「先生、一体誰がこんなことをしてるの?心当たりはない?」
「分からない・・。」
俊夫はいろいろ考えた。
まず最初に思い浮かんだのが、あかりと焼肉を食べたときに偶然居合わせた保田と大河内の二人だ。
しかし、あの二人とは特別親しいわけではないが、特に敵対しているわけでもない。
あの二人がこんなことをして何か得になることがあるだろうか?
「あかり、君の方は心当たりはないかい?」
「え、私?わからない・・。」
「そうか、仕方ないね。今はどうしようもないので、当分二人で合わないようにしよう。」
「うん。じゃあ私もう帰るね。」
「送ってくよ。」
「いいよ。また写真撮られたら困るし。」
「そうだな。じゃあ、気をつけて帰れよ。」
「うん。北野先生、さようなら。」

 

第四話

あかりと俊夫が別れてから2ヶ月ほどが経った。

「芳子、早く起きなさい」
「はーい。」
芳子は眠いのを我慢して気合で起きた。
トイレに行き、歯を磨き、髪を整えた。
そして本格的な西洋風の朝食を食べる。
芳子の母、久子は専業主婦であるが、料理などには非常に凝るタイプであり、朝から本格的な朝食を作る。
久子の夫、つまり芳子の父である隆夫は会社経営を行っており、今はその会社経営がうまく行っているために金銭的な不自由はない。
芳子は朝食を済ませると制服に着替えてでかけた。
芳子の家は学校まで近いため、自転車通学である。
自転車をこいでいるとあかりが歩いているのが見えた。
「あかり、おはよう。」
「おはよー。」
あかりは自転車の後ろに乗って二人は学校へ向かった。

佐野芳子、あかりの友人である。
二人は親友と呼べる間柄でお互いによき相談相手である。
もちろん、あかりは芳子に俊夫との一件も相談している。
俊夫に告白したこと、俊夫と付き合ったこと、予備校に脅迫状が届き俊夫と別れたこと。
芳子はそのたびに真剣に相談に乗ってくれた。
もちろん、あかりが芳子の相談に乗ることもある。
芳子は同じ高校の信哉と付き合っていたときに妊娠した疑惑があったが、そのときはあかりが相談に乗った。
結局、市販の検査薬をあかりが変わりに買ってきて無事解決したのだが。

今日は学校の帰りに芳子の家にあかりが遊びに行くことになった。
芳子の家は裕福であるため、いつもおいしい、珍しいおやつが出るのだ。
あかりはそれが楽しみでたまらなかった。
「おじゃまします」
「あら、あかりさんいらっしゃい。今日は沖縄産マンゴーがあるわよ。」
こんな感じで、あかりが芳子の家に着けばおやつの話になる。
「おいしー。芳子はいいなあ、いつもこんなの食べられて。」
「ふふ。いいでしょ。」

おやつを食べて、芳子の部屋で二人で話していると、自然と予備校に送られてきた脅迫状の話になった。
「あかり、私思うんだけど、脅迫状送ったのって宏明君じゃない?」
「え、なんで宏明君がそんなことするの?宏明君はそんなことする人じゃないよ。」
「でも、あの人、あかりのこと好きだったって噂よ。あかりと北野先生が付き合ってるのが面白くなかったんじゃない?」
「それで宏明君が脅迫状を?そんなことするのかなぁ・・。宏明君とは友達だからそんなこと考えたくないよ。」
「別に宏明君だって決め付ける必要はないけど、一応容疑者の一人だね。あの手の真面目なタイプは何するかわかんないよ。真面目そうに見えた竹田先生だって痴漢で逮捕されたしね。」
「ちょっと、竹田先生と一緒にしないでよ。あの先生ちょっと変態っぽかったじゃん。」
「そお?私結構あの先生好きだったからショックだったな。」
「それよりあかり、あんた何か相談があるって行ってなかったっけ?」
「うん。実はね、あたし妊娠してるかもしれないの。」
「ええっ!北野先生との?」
「うん。」
「ちゃんと確かめた?ただの生理不順じゃないの?」
「薬局で検査薬買ってきて確かめたよ。陽性だった。」
「そっか。困ったね。未成年の場合中絶するにも親の同意が必要だし。あかり、親に北野先生とのことは言ってないんだよね?」
「うん。うち厳しいからそんなこといえないよ。まして、妊娠してるなんて・・。絶対無理。」
「そっか。不法行為だけど、未成年でも手術してくれる医者がいるらしいから私も探してみるよ。」
「芳子、あたし、北野先生の子産みたいな・・。」
「あんた本気?大体北野先生とは1ヶ月しか付き合ってなかったじゃない。それに北野先生あかりと結婚する気なんてあるの?」
「分からないけど・・。」
「とりあえず北野先生に相談してみた方がいいよ。」
「そうだね。先生に相談してみるよ。」

「え、あかり、それは本当か?」
「うん。」
「そうか。俺としたことが・・。すまない。なんと言って謝っていいのか。」
「先生、私、先生の子産みたいな・・。」
「あかり、本気か?」
「うん。」
「君のことは好きだ。しかし、君はまだ高校生だし、それに君のご両親にもまだちゃんと挨拶をしてないし・・。」
あかりは思わず泣き出してしまった。
俊夫は迷った。
俊夫は必死で考えた。どうするのが最善の方法なのだろうか?
俊夫があかりのことを愛しているのは紛れもない事実だ。
交際が長引けば結婚を考えたかもしれない。
しかし、あかりとは1ヶ月しか付き合っていないし、それに何よりまだ高校生だ。
俊夫は悩んだ。
「あかり、すまない。1日だけ、考えさせてくれないか?君の事は好きだ。だからこそ、ちゃんと考えて決断したいんだ。」
「うん・・。」

第五話

「え、本当に?」
あかりが驚いた声を上げた。
「ああ、俺の中で決心がついた。あかりのご両親にしっかり挨拶をして結婚の許可を頂きたいと思う。」
「ありがとう。先生。」
「でも、やっぱり君のご両親に会うのは緊張するな。交際の報告をするだけでも大変なのに、その上子供までできてるんだからな。なあに、2,3発殴られるぐらいの覚悟はできてるさ。」
「北野先生、頑張って。」

週末の日曜、俊夫とあかりは駅で待ち合わせて、一緒にあかりの家へ向かった。両親に挨拶をするために。
途中、長い階段を下っているときに、事件は起きた。
あかりが階段を下りていると、突如あかりの足元にロープが張られ、あかりはつまづいて転んでしまった。
誰かが意図的にロープを引っ張ってあかりを転ばせたのだ。
あかりは階段の一番下まで落ちてしまった。
痛そうに苦しむあかりの姿が俊夫の目に入った。
俊夫は急いであかりの元に駆け寄った。
「あかり、大丈夫か?」
「先生・・、痛い、おなか・・・。」
「あかり?」
あかりの痛がりかたが尋常ではないので俊夫は不安になった。
俊夫があかりをおぶってあかりの家に向かったが、途中であかりの様子がおかしくなり、やむを得ず救急車を呼んだ。
あかりは近くの救急病院に搬送されたが、即入院となった。
俊夫は重い気持ちであかりの両親に電話をし、呼び寄せた。
両親が医師から話を聞かされた。
「あかりさんは、階段から落下したときに腹部を強打し、その影響で流産をしてしまいました。お気の毒ですが、死産ということで・・。」
あかりが妊娠していたことすら知らなかった両親の驚きはあまりにも大きかった。
あかりから「彼氏を連れてくる」ということだけは聞いていたが、妊娠のことなど予想外だった。
あかりの父、聡史は無言で俊夫に近づくとおもむろに俊夫の顔面を一発殴った。
突然の出来事だったので俊夫は思い切りよろけて転んでしまった。
「申し訳ありません。」
俊夫が起き上がって聡史に謝る。
「すまない、ついカッとなって手をあげてしまった。暴力は嫌いなのだが。しかし、まず君に質問をしたい。あかりが妊娠をしていたようだが、その相手は君かね?」
「はい。間違いありません。」
「そうか。まず、君はずいぶんあかりとは歳が離れているじゃないか?いったいいくつなんだ?仕事は?」
「35歳。北野俊夫です。あかりさんが通っている予備校の講師をやっています。」
「そうか、予備校で・・。」
と、ここで再び両親が医師に呼ばれた。
そこで、さらなる衝撃的事実が発覚した。
「大変申し上げにくいことなのですが、あかりさんは先ほどの流産により、今後出産をすることはかなり難しいこととなってしまったようです。」
弘子と聡史は驚いた。そして、ショックを受けた。
「つまり、あかりに子供はできないということですか?」
「ええ、申し上げにくいのですが・・。」
医師も言いにくそうに答える。
「そうですか。分かりました。」聡史は魂が抜けたように返事をした。
あかりが子供を産めない体になってしまった。
少なくとも、人生においての一大事である。
両親の悲しみ、ショックは大きかった。
また、この事実をあかりに伝えなければならないという非常に気の重くなる任務もある。
病院の喫茶店で俊夫と両親が話している。
「北野君。私は頭ごなしに交際を否定するような真似はしたくないが、年齢差、君の立場、妊娠、流産、不妊。これらのことを考えると私達として、君とあかりの交際を認める気にはなれない。こういういい方はしたくないが君のせいであかりの人生は大きく変わった。しかも悪い方にだ。今後、あかりの前に姿を現さないでほしい。」
「わかりました。ご迷惑おかけして申し訳ありませんでした。」
俊夫が力なく答える。
「とりあえず、今回の件については弁護士にも一度相談して、後日もう一度連絡しますので今日のところはもう帰ってください。」
「はい。申し訳ありませんでした。」
俊夫は力なく帰路に着いた。

あかりが意識を回復したので両親が様子を見に行った。
「あかり、大丈夫か?」
「う、おなか痛いけど・・。大丈夫。北野先生は?」
「彼には今日のところは帰ってもらった。いろいろ話したいことはあるが、今はまずゆっくり休んで体を直すのが先だ。」
「うん・・。」
あかりは不安げに答えた。
そして、思い出したように言った。
「そうだ。誰かがわざとロープを引っ掛けて私を階段で転ばせたの。」
「あかり、それは本当か?」
「詳しくは覚えてないけど・・。私が階段を下りてたら急に足先にロープが現れて。私は階段から落ちちゃったし、先生もあわててすぐ私のところに来たから詳しくは分からないけど。」

両親はあかりが足をかけられたという現場に行ってみた。
もうすでにロープは片付けられていたようで残っていなかった。
とっさのことなのであかりの勘違いということも考えられるが、念のために警察に傷害事件として被害届を出しておいた。
「一体誰がこんなことを・・。」
あかりは自分を転ばせた犯人の心当たりを考えた。
今回は流産だけですんだが、打ち所が悪ければ命に関わった可能性だってある。
しかし、あかりに心当たりはなかった。

数日後
「弘子、お前あかりにあのことを伝えてくれないか?こういうことは女親の方がいい。」
「そうね。わかったわ。あの子、どれだけショックを受けるか・・。」
両親は事件から数日経ったがいまだに不妊の件についてあかりに言えないで居た。

第六話

「あかり、ちょっと話があるんだけど。」弘子があかりに声をかけた。
「なあに、お母さん。」
「この前、入院した病院の先生が言ってたんだけど・・。」
「言ってたんだけど?」
「あの先生、トイレはウォシュレットじゃないと嫌みたいよ。」こんな感じで、弘子はあかりに本当のことをいえないで居た。

「本藤先生、ちょっとお話が。」俊夫が予備校で本藤に声をかけた。
「申し訳ありませんが、今年度限りで辞めさせてください。」
「北野君、どういうことだ?理由を聞かせてくれないか。」
俊夫はあかりとの一件を話した。
そして、このままだと予備校に迷惑をかけること、また自分自身この仕事を続けていく自信がなくなってしまったことを告げた。
「君の気持ちは分かった。少ないけど、退職金を出すから。もし、今後の人生で何か困ったことがあったらいつでも私のところに来なさい。」
「ところで、ここを辞めた後はどうするつもりだ?」
「生協で派遣社員として働かせてもらえることになりましたので・・。」
「そうか。頑張れよ。」

そして、時はたち3月となった。
本藤が送別会を提案したが、俊夫は断った。
俊夫は受け持ちの受験生に対する責任も果たし、晴れて転職することができる。
あかりは、両親に他の予備校に行くように説得され、別の予備校に通った。
あかりのなかで、だんだんと俊夫の影が薄れてきた。
精神的なショックのせいか、希望の大学に合格することはできずに浪人することになってしまった。
親友の芳子はなんと、記念受験した医学部に合格してしまい、医学部に進学することになった。
「あかり、来年は頑張ってね。」芳子が励ます。
「ありがとう。芳子も大学に行ってもがんばって。立派なお医者さんになってね。」
卒業式で二人は言葉を交わしていた。
芳子は県外の大学に通うため、4月からは一人暮らしをする。
芳子と会うことはかなり少なくなるだろう。

その後、俊夫は誰にも引越し先を教えずに引っ越した。
例外として、責任を取るためにあかりの両親にだけは連絡先を教えたが。
俊夫は、引越し先の安アパートで一人虚無感に浸っていた。
風呂トイレ無しの家賃3万円のアパートだ。
俺の人生はなんだったんだろう。こんなはずじゃなかった。
本当なら、今頃研究者としてバリバリ働いているはずだったのに。
どこで狂ってしまったのだろうか。
そのとき、たまたまテレビをつけたらオーケストラの演奏をやっていた。
ブルックナーの交響曲第8番だ。
4楽章の力強い金管の響きだ。
途中からなのでどこのオケ、指揮者が誰なのかはわからなかったが、久しぶりに聴くクラシック音楽は俊夫の心を癒した。
そして、俊夫は思い出した。
自分が昔作曲を志していた時期があったことを。
幼い頃よりピアノを習っていた彼はかなりの腕前だった。
一時期は音大進学も考えたが、やはり自分は化学の道に進みたいと思い理系の道へ進んだのだ。
俊夫は、押入れから古いキーボードを取り出した。
そして、思いつくままに指を動かした。
そこには、断片的ながら、美しい旋律が存在した。
その日から、俊夫は作曲をするようになった。
最初は思いつくままに音を並べて楽しんでいたが、五線譜を買ってきて気に入った曲ができると書き留めるようになった。
あかりのことを考えながら作曲をすると、不思議と美しい曲ができる。
しかし、その曲を演奏すると、悲しい思い出が蘇ってきて余計に虚無感が増すのである。

4月になり、あかりは予備校の浪人生コースに通うことになった。
今日は最初の授業である。
教室に入って座っているとぽんと肩をたたかれた。
振り向くと宏明がいた。
「おう、あかりもここの予備校だったのか。偶然だな。」
「へー、宏明君もここの予備校かぁ。お互い浪人だね。来年は受からないとねぇ。」
「そうだな、頑張ろう。」
あかりは英語が苦手だったが、宏明は英語が得意だった。
逆に、あかりの得意な化学は宏明が苦手だったので、二人はよく一緒に勉強をするようになった。
予備校の自習室で二人で勉強をする姿がよく見られるようになった。
休日に二人で図書館で勉強をしたりと、元々親しかった二人であったが、浪人してからさらに仲良くなった。
しかし、あかりのなかで宏明が「友人」以上になることはなかった。
心のどこかで、俊夫のことを忘れられないで居たのである。
あかりの浪人生生活は成績も上がり順調に進んでいた。

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送